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「ことだま」は一般的に「言霊」と書くことが多いですが、「こと」は「言」と「事」を区別なく双方をさしたものです。 言葉と事柄のかかわりを総体としてキチンと把握していることで言葉と事柄が結びつき、具体的な現象となってあらわれます。 なのでアニメなどの設定にありがちな「魔法の呪文」のようなキーワード単体で意味を生じる事象は現実にはあまり存在しません。 さて、まずは言葉というものについて。 言葉とひとまとめにいっても、実はいろいろな形態があります。 喋る言葉、書く言葉はもちろん、身振り手振りも意思伝達を伴うなら立派な言葉です。喋る言葉であっても、直接会って喋る言葉もあれば、電話で話す言葉もあります。 同様にちょっとした仕草や表情、歩き方、身につけるアクセサリー等も周囲に何かしら伝わるものがあるなら広い意味で言葉とみて問題ありません。 これら言葉の働きを考えるための具体的な事例として、停電で信号機が消灯した交差点で活躍する交通整理のお巡りさんを考えてみましょう。 ある方向からやってくる通行車両に旗をふって「止まれ」の指示を出すとします。 このとき、大切なポイントが幾つかあります。
ポイント1:立ち位置
ポイント2:運転手への正しい伝達
ポイント3:運転手の挙動の確認
ポイント4:自分以外から発せられる指示への注意 上記1〜4が全て満足した時にのみ、お巡りさんの旗をふる身振りの「言葉」が交差点という「事象」をスムーズに鎮め納めることが可能となります。逆にどれか一つでも欠けるとトラブルが生じやすくなってしまいます。 このように周囲の状況としっかり噛み合った言葉は非常に大きな現象をもたらします。逆に周囲を無視して願望だけを投げかけてみても言葉は空回りするだけで何の効果も得られませんし、場合によっては事故の原因となることもあります。 以上の交差点の話はごく普通のことで、何も不思議なところは無かったと思います。 「ことだま」と大仰にいっても、所詮その程度のありふれたものにすぎません。少々乱暴な説明ではありますが、これが「ことだま」の作用の全てと理解して頂いて結構です。 あとはその応用で、時には運勢など普通だと手の届かないような事象にまで影響力を発揮させる事もできます。(もちろん影響力で変えられる幅に制約は存在するので何でも自在に・・・というワケにはいきませんが) 特に大切なのは「ポイント2」です。「ことだま」というのは自分の意志を一方的に相手に押しつけるものではありません。相手との調和の上で成立するものだからです。 調和を無視して「自分は○○と考える。全員コレに従え!!」といった言葉は一時的に機能したとしても、後で小さな綻びが生じればあっという間に破綻するものです。 当方の経験上、言霊を上手に使える人には自然の草花だとか周囲の人の言葉によく耳を傾ける人、あるいは言葉づかいが綺麗な人が多い傾向が見られます。 また上記1〜4のどこかでうまく行っていない人であっても、少しのアドバイスであっという間に上手になっていく人もいます。 一応「ことだま」と表記はしていますが、周囲の事物をしっかりと理解してそれに自分の心を馴染ませる事ができるようになれば、発するのは何も言葉である必要すらありません。 例えば玄関先を綺麗にしておくこと・・・といった事でも家運と密接な関係が生じるのも、なんとなく理解して頂けますでしょうか? もちろん単純に玄関先を綺麗にしておくだけでも良いのでしょうが、それがお客様を迎えるためのものだと心から納得しての掃除と、うわべだけの掃除では効果に大きな差が生じるのも感じて貰えれば嬉しいです。 そういえば最近気になった歌で植村花菜さんの「トイレの神様」というのがあります。
「トイレには それはそれはキレイな女神さまがいるんやで」 ちょっと聞いただけでは年寄り臭い荒唐無稽なセリフかもしれません。 ですがきっと、おばあちゃんの発した言葉はとても愛情にあふれた真摯なもので、孫娘である植村花菜さんもその言葉をその言葉のとおりに受け取ったのでしょう。 そのおばあちゃんの言葉はやがて2010年のNHK紅白など様々な大舞台において、最愛の孫娘を日本でいちばんのべっぴんさんに押し上げてしまいました。 「トイレの神様」は近年まれにみる、もの凄く力強く、そしてすばらしい言葉のひとつだと思います。 どのような時であれ自然を友とし、周囲を理解できるような、ことだまの幸わう人でありたいものです。 余談(その1): キリスト教の文句に「信じるものは救われる」というのがありますが、「言葉を発する者と受け取る者の和合によって動きが生じる」ということを前提に考えるとその意味がよく解ります。 キリスト教では「(イエス様の教えを)信じるものは救われる」と狭い意味に限定して用いられる事が多いようですが、本来の意味はもっと広いものだと思います。「トイレの神様」のように孫娘を慈しむおばあちゃんの言葉であっても同じことがいえます。 余談(その2): 「言葉を発する者と受け取る者の和合」といっても、この両方が別人である必要はありません。というよりも、一般に言葉を発する者の影響をもっとも大きく受けるのは発した当人になります。 たとえば学校教育の場で先生が子供を見るときによく注意しているのは「言葉のみだれ」だと聞いたことがあります。 普段から自分の思った事を口にしているのが通常ですので、そのままストレートに自分で納得して受け取ってしまうのは当然の流れです。 そのような中で「本人の乱れた言葉が自身にダメージを与え、ダメージを受けた本人の言葉がますます乱れる・・・」という無限ループの渦をなしてしまうと、服装のみだれ、生活習慣のみだれ、友人関係のみだれ・・・などを次々に引き起こすのはあっという間でしょう。 言葉を用いる上で、国語力というのはとても重要なものになります。国語力といっても国語の授業だけでまかなえるものではなく、日常の会話などもとても大切になります。 こころあたりのある方、是非ご一考あれ。 |
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