よく日本神話では「高天原で神々が相談」というシーンが出てきます。
これは祝詞で多用される「高天原に神詰まります〜」という言葉と「神集いに集いて、神議(ハカ)りに議(ハカ)りて」という言葉から来ています。もちろん、「高天原で神々が相談」というふうに読み解いても悪くは無いのですが、他にも重要な意味があります。
一般には「高天原」に「タカマガハラ」とフリガナをうってある事が多いですが、それは誤りで正しくは「タカアマハラ」と読みます。
この言葉は

| タアマ ハラ |
勾玉が旋回している様子 |
| カアマ ハラ |
カマ(剣)が旋回している様子 |
| タカア ハラ |
鏡が旋回している様子 |
の3つを重ね合わせた言葉です。更に掘り下げればこの「高天原」という言葉だけで本が一冊書ける分量があるのですが、その筋では有名な話なので興味のある人は自分で調べてみてください。
そして「高天原に」に用いられている「に」の文字を正しく理解することもとても大切です。
これは「A地点に集まる」というような場所を表す「に」にも取れるのですが、「真っ赤に燃える」といように状態を表す「に」として解釈することもできます。
この場合「高天原に神詰まります」という言葉は
「タアマ ハラ、カアマ ハラ、タカア ハラ な形に 神が ギュウッとつまっている」
という意味で捉える事ができます。
次に「神集いに集いて、神議(ハカ)りに議(ハカ)りて」という言葉ですが、祝詞に現在の「議」の漢字が割り当てられたのは後世になってからのこと。古い文献を辿ると「分」という意味で用いられている場合があります。
| 柿本人麻呂が草壁皇子の死に対して作った挽歌 |
| 天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して 神分り 分りし時に 天照らす 日女の尊 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し 座せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と 天の原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ わご王 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満しけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方しらずも |
実は「高天原に神詰まります」の部分は全体としての構造を静止画として表現していて、「神集いに集いて、神分(ハカ)りに分(ハカ)りて」の部分でその動きを動画として表現しているのです。
次の図をご覧下さい。
| 上から下に光が向かう様子 |

光が上から中心へ移動 |

静止した観測者が下から見た様子
|

回転する観測者が下から見た様子
|

光が中心から下へ移動 |

静止した観測者が下から見た様子 |

回転する観測者が下から見た様子
|
光が上から中心へ移動する様子が「神集いに集う」、中心から更に下に移動する様子が「神分かりに分かる」なワケです。
補足:
「高天原」について、「九州にそういう地名の場所があった」と主張する方もいらっしゃるようですが、この解説は的を得ていません。例えば近年「南アルプス市」という綺麗な名前の市が誕生しましたが、「南アルプス」という言葉そのものは同市が誕生する以前から使われていたのはご存知のとおりです。九州にかつて「高天原」という地名があったとしても、それが祝詞や神話に使われている「高天原」と直接の関係があるというのは早計でしょう。
  
|